『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)要約・レビュー
『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)は、「なぜ人は退屈するのか?」「なぜ人は暇だと辛いのか?」という、誰しもが日常的に感じているだろうことを取り上げる哲学の本。
大学で哲学を勉強をしていたのに正直難しい内容でした。挑戦と挫折を繰り返し、一か月以上かけてようやく読み切った。
本書のあらすじとしては、暇と退屈はそれぞれどういったものなのかを、昔の哲学者の言葉を紐解いたり時には批判しながら、解説するといった内容。
暇と暇潰しについて
まず、フランスの自然哲学者ブレーズ・パスカルによると、人間の不幸は、どれも人間が家でじっとしていられないがために起こるとのこと。さらに、人間は暇から逃れるために熱中できるものを一生懸命探し、それを使って自分を騙している。
例えば、兎狩りに行こうとしてる人に兎を渡しても喜ばれない。現代に相応しいに置き換えると、魚釣りに行こうとしてる人をスーパーの魚売り場に連れていっても喜ばれないのと同じこと。本書では欲望の対象は欲望の原因と異なると難しく書かれているが、要するに兎や魚を捕ること自体より過程を楽しみたいということだと思う。純粋に兎狩りや魚釣りが好きだと思うかもしれませんが、パスカルが本当に言いたいのは、その過程を通して暇潰しが成り立つということ。
現代人は多忙な生活をしていて、時間があったら好きなことができると漠然と考えている人が多いが、しかしその「好きなこと」とは何だ、と著者は述べる。貴方の「やりたいこと」や「好きなこと」はもしかしたら、テレビで放送されていてなんとなく自分の趣味になりそうなものに過ぎないのでは、と問いかけられる。ただ暇潰しをするために暇を望んでいるのであれば、それは無意味な生き方でしょう。
暇と退屈の違い
英国の著名な論理学者であったバートランド・ラッセルによると、暇とは時間を持て余した状態で、退屈とは事件が起こることを望む気持ちが挫かれたこと。
暇と退屈を4類型に分けることができる。
- 暇がある&退屈している: 暇でやることがなく、暇潰しができないため退屈もしている状態。本書で挙げられる例は、田舎の駅で次の電車まで数時間あり、スマホや小説は持っているかもしれないが見る気にならなく、退屈しているといったシチュエーション。
- 暇がある&退屈していない: 暇も生きる術を持っている状態。趣味や教養、または時には何もしないことを楽しんでいる。
- 暇がない&退屈していない: 多忙な日々を過ごし、且つその忙しさに生き甲斐を感じている状態。
- 暇がない&退屈している: 一見矛盾した状態だが、忙殺の日々の中に本当のやり甲斐が感じられない人を意味する。
ドイツの哲学者ハイデガーは、1の状態を何かによって退屈させられている、2の状態を何かに際して退屈すると定義付けられた。
『暇と退屈の倫理学』の感想
自分は短い期間で1~4全てを感じたことはありますし、暇と退屈は紙一重の関係だと思った。
「人間の不幸は、どれも人間が家はにじっとしていられないがために起こる」という理論には納得。確かに、人は暇を嫌います。現代スピード社会では、暇な人は「社会に必要とされていない」、「やらなければならない事をさぼっているみたい」などといったネガティブなイメージがある。他人に見られていなくても、暇になると「彼氏に浮気されているんじゃないか」、「あの時こう言えばよかった」など、余計なことを考えてしまい問題を作り出すことさえある。
暇が苦手
私だってできれば「暇」が発生しないように効率良く予定を梯子することを心がけている。出先で時間が空いてしまいそうな日は、せめて単行本を持ってカフェで読書しながら暇潰しできるようにする。
自分一人で予定を組める場合はそれで良いのですが、例えば友人が待ち合わせに数分遅れた時や、友人がお手洗いで席を外した時でさえ、手持ち無沙汰になる。こういった数分の暇があった場合、多くの人はスマホを取り出すと思う。しかし私はスマホをあんまり使わないし見たいとも思いませんし、連絡を取り合う相手もいない。
単行本を取り出すほどの時間でもないので困る。昔はスケジュール帳を眺めていたけど、今はGoogleカレンダーに乗り換えているのでそれもできない。家なら適当にストレッチをしたりハンドクリームを塗ったりしますが、外だとそういうわけにもいかない。
※ 本投稿は『暇と退屈の倫理学』に対する個人的な解釈と感想です。